石田徹也展の衝撃
練馬区立美術館の石田徹也展に行ってきた。
面白い画家がいるものですねぇ。2005年に31歳で亡くなっているので、「いた」というべきでしょうか。
展覧会を見ながら私が連想したのは、松本竣介やビュッフェ、リタ・アッカーマンの世界。
石田の2000年以前の諷刺画は、産業社会を皮肉ったものが多いが、その諷刺の切り口は古くからあるオーソドックスなもの。
私が松本やビュッフェを連想したのは、たぶんそのせい。それと、センチメンタルに堕さない静かな孤独感が共通しているせいもあるでしょう。
石田の諷刺画は、現代日本ではなく、一見戦前や戦後まもないころの日本の雰囲気を漂わせているものが少なくない。
分かりやすい諷刺の視座を獲得するためにとった、擬態の戦略でしょう。そう、私の眼には映った。
絵のうまさという点では、石田は松本やビュッフェをはるかに凌駕している。
そして、高度な技術によって醸し出される静謐な孤独感の強烈さが、2000年以前のいくつかの作品を単なる諷刺画を超えて、われわれの時代にふさわしい芸術作品に昇華させている。(浮き輪やくらげを登場させたベッドの上の自画像など)
正確な境界は見極められないが、2000年前後を境に作風が一変し、深化していると感じた。
無知で無力ながらも、無垢であった自画像から、無垢の要素が消える。自分を無垢であると感じられなくなった瞬間が、この時期前後の画家に訪れたに違いない、と思う。(「堕胎」という作品がそれを匂わせる。伝記的な根拠はないが)
そして無垢の要素を、自分とは別の小人のような登場人物に託して絵のバランスを成立させるようになった。(消防士を描いた作品など)
おそらく“引きこもり”をテーマにした2001年の「捜索」や2002年「離乳」、ゴッホの自傷行為を模しながらムンクのある種の作品をも連想させる2001年の「しじま」。ホームレス生活を描いた「前線」。
このあたりの、社会諷刺の視点がやや後退して自虐性が強まりながらも、自分を客体化する視点を失わない秀作群が、われわれをもっとも打つのではなかろうか。
私は、このあたりの作品に、以前リタ・アッカーマンの画集を見たときに感じたのに似た、「同時代感」のようなものをまざまざと感じた。
2004年の「転移」や「自己決定」になると、笑いの距離感がなくなってきて、作品が平板になってしまっている。(自虐性が強まり過ぎている)
私の現時点でのベスト3を選ぶとすれば、・・・
死体化生を連想させる「捜索」と「草食竜」の2作品は入る。もう一つは、母親が明るい戸外でゴミ袋を運んでいる、引きこもりの絵かなぁ。
引きこもり3作がベスト3になってしまった。年内にできたらもう一度くらい、見に行きたいと思う。
最後に・・・石田徹也はわれわれの時代のヒーローです。2008年の締めくくりに、みんな練馬へ行きましょう。
